浦安ヒストリー history3...

思い出

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3.浦安校舎建築
校舎建築エピソード

東海大学と地元との話がまとまり東海大学は附属高等学校を移転させる17、○○○坪の校地が手に入り、浦安町は待望の高等学校誘致が決まったのである。

昭和48年、大学本部は3井建設に学校建設のための設計を依頼した。

設計を引き受けた3井建設は、十数人からなるプロジェクトチームを編成した。埋め立て地という悪条件の中で、どのように校舎群を建築していくか慎重な研究が進められた。地盤調査の結果、支持層らしいものは地下60mまで杭を打ち込まなくてはならないことが判明した。かといってこの支持層まで杭を打ち込むことは大変な作業であり、費用も膨大なものとなる。また、杭打ちが成功しても、地盤そのものも沈下するわけだから、年月が経つにつれて建物が浮き上った格好になる。そこで、フローティング工法というものが取り入れられることになった。

フローティング工法とは、多数の杭を打ってその上に地中梁をのせ、建物の重さを地中梁に受け、均等に力を杭に伝えて不等沈下を防ぐというものである。

結果として地下にピットができるため、ちょうど大地にコンクリートの船を浮かばせた格好になる。地盤の沈下と共に建物も沈下させ、不等沈下を防ぐというものである。更に昭和39年の新潟地震のとき、埋め立て地の建物が、廻りの土が流出したことで倒れたこともあって建物のまわり8メートルに渡って地盤改良(パイブロフローテーション)を施すことにした。以上のような工事方法の基本方針から建物の形や高さもおのずから決まってくる。できるだけ正方形に近い形で高さも制限された。

こうして、現在のような校舎群の配置と校舎の形、大きさなどが決定されたのである。

昭和49年6月、松前総長をはじめとする学園関係者、千葉県など地元関係者、工事にたずさわる3井建設の関係者など多数が参列する中で、第1期工事の地鎮祭が行なわれた。

私が初めて、この校地を見たのは、第1期工事の基礎工事が進むその年の9月23日であった。秋雨が降りしきる中を化学の鈴木光之先生と2人で、今の体育館あたりから見たように思う。雨のせいもあろうが、校地の南側の境界線あたり霞んで見えた。思わず「広いなあ!」と感嘆の声が口をついて出た。校地の境界には、緑色の金綱のフェンスが張りめぐらしてあり、廻りにはなにもない野原で、鉄鋼団地まで真すぐに見透せた。

基礎工事として1、2号館に打ち込まれた杭は約2千本にも及び、7、8階建てのビルに相当する。また、建築が進む間中、学園本部建設課の先生方と3井建設のプロジェクトチーム、現場で施工にあたっている人々が、毎週検討会議をもち、研究に研究を重ね、慎重の上にも慎重に工事を進めていった。

校舎建築にあたって、充分なる研究を重ねる1方で、教育設備についても慎重に検討された。前に述べたように、地盤の問題から建物の改築は非常に難しい。将来、新しい教育設備を備えるための工事も困難になってくる。そこで、最新の教育設備をいま施しておく必要があるし、将来の改築にそなえられるような準備がなされなければならない。また、現在は必要に迫られていない特別教室も、将来必要とあるならばプランの中に入れておかなくてはいけない。こうして、特別教室をはじめとする設備が計画され、また、音楽室や地学実験室などもできることになった。その他、将来のスチーム暖房用の天井裏配管もできている。

昭和5年3月15日、第1期工事として2号館、2号館、そして1周250メートルの陸上競技場が完成した。更に9月には両翼91メートル、センター120メートルの野球場ができあがった。また、3号館は、49年の12月に着工、50年10月に完成した。

こうした校舎建築の費用は、1、2号館が6億5千万円、3号館3億2千万円、陸上競技場と野球場が合わせて8千5百万円、その他5千万円と、ここまで総工費11億1千万円の巨費にのぼった。
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