浦安ヒストリー history2...

思い出

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2.浦安町の歴史と移転経緯
浦安町への移転経緯と町の歴史

浦安は千葉開府とほぼ同じ歴史を持つというから、それは約8百年にもなろう。昭和30年代の初めまでは、東京湾の向うに雄大な富士を遠望するのどかな漁村であった。ただ境川付近だけは朝夕の漁船の出入りでにぎわっていたものと思われる。「宵越しの金は持たぬ」というキップの良さや人情の厚い土地柄の漁師町「浦安」が大きな変化を始めた原因は東京湾の汚染にあるといえよう。かっては豊富に水揚げされていたあさりやはまぐりが、海水の汚れでめっきり漁れなくなった。のりの養殖も年毎にその被害が大きくなってきた。このことは漁民にとっては致命的ともいえる問題であった。

昭和32年頃から、京葉臨海工業地帯造成事業の1貫として、浦安沖を埋め立てる計画が持ち上がった。当時、埋め立て地に工場が林立する川崎市へ町の代表者が出向いていろいろと調査をした。すでに大気汚染問題が起っていたからである。調査の結果、重工業や化学工業の誘致はしない。代わりに鉄鋼流通センターの設立、アメリカのディズニーランドに匹敵する大遊園地を誘置し、更にグリーンベルト地帯を造る構想がまとまった。

昭和37年、1部の漁民が漁業権を放棄した。そして昭和39年、第1期工事として685ヘクタールの海が埋め立てられることになった。

第2期埋め立てが完成すると浦安町の面積は旧浦安町の4倍になり、昭和60年には人口16万5千人〔昭和53年現在約4万3千人)の1大都市に変貌する計画である。

昭和44年、埋め立て工事に伴って、地下鉄東西線が開通した。もともと東西線の開通は、総武線の混雑緩和が目的であったのだが、それまで陸の孤島とまで言われた浦安は、都心まで20分という距離になった。当然ペットタウンとしての要素が強くなった。

この計画の中で最も重要とされる問題の1つに学校建設があった。小学校18、中学校9、高等学校3、のあわせて30校の建設が必要とされている。

千葉県下には私立高校が少ない。特に工場誘致のこともあって地元民の子弟を教育する工業高校を誘致しようと考えていた。最初、町は日本大学系へ話を持っていった。

それが東海大学へとつながり、東海大学、浦安町、千葉県のそれぞれの事情から、本校が渋谷から浦安への移転する接点が生じたのである。
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