内木文英 語録 vol.2

思い出

vol.2
Vol.2 私と文章


はじめ私の文章のかげに母親がいた。母が私の才能をどこでどう感じとったのか、それは今だにわからないが、兄に対して勉強を強要しながら、私に対しては文章を書くことを命じた。事あるたびに原稿用紙をつきつけて、文章で表現することを命ずるのだった。

幼い私にとって、原稿用紙のマス目を、鉛筆で埋めていくことは、たいへんな作業であった。途中で投げ出したくなるようなこともあったが、おしまいまで書き終らなければ許されなかった。書き終って母の所へ持って行くと、母は相好をくずして、私の書いたものに手を加えていった。遠慮会釈なく引きちぎり、書き加え、すっかり別の作品にして返してくれた。

そしてそれを清書しろと命ずるのである。清書してできあがっても私の心は晴れない。自分のものではないからだ。しかし思いかえしてみて、そのことが少しも不愉快でないのは不思議なことだ。母が私の書いたものに立ち向っていくその姿に、心ひかれていたに違いない。

小学生の頃、そうして書かれた作品によって私はたくさん賞状をもらい、メダルをもらった。私は実感として自分がもらったのだという感慨はなかった。しかし母の手の加わったそれらの作品は、今の私にとってはこの上なくなつかしいものなのである。作品も賞状もメダルも、戦災で焼かれて今は残っていない。

母は私の14才の時死んでいる。私は自由になった筈である。その頃からむやみに徹夜して、たくさんの原稿を書いていった。どのくらい書いたかわからないが、何万という枚数であったと思う。私は作家になったつもりでいた。その頃書いたいくつかのものが、活字にならずに残っている。読みかえしてみるとひどいものばかりである。やたらと気負っていて、しかも見せびらかしの多い作品である。文章もまるで借り物なのだ。

その得意の鼻をへし折ってくれたのが古谷綱武先生であった。TBSのテレビで解説を担当している古谷綱正氏の実兄で、横光利一論で世に出た評論家である。私は21才になっていた。

「おまえみたいに下手くそな文章を書くやつをはじめてみた」
何が作家だ。作家になろうなんてとんでもない。そういわんばかりの口ぶりであった。リルケの「若き詩人への手紙」を読ませ、ほんとうに書きたくなるまで何も書くな、と言うのである。私はそれでもいくつか書いて、古谷先生の家に通った。一年あまり経って、一つの作品が書けて持っていくと、 「文章は下手だが、技術は訓練をつめば何とかなる。問題は態度だ。これは人がらにかかわることだ。おまえにはどこかいい所がある。書いてもいいよ」と言われた。

杉並区天沼の古谷先生の家から、国電阿佐ヶ谷駅まで、私は涙をぼろぼろこぼしながら歩いた。おれには何かいいものがあるんだ。何とかそいつを、一生懸命やって表現しよう。ちくしょうめ。負けるものか。どんなことがあってもやっつけてやるぞ。そう思っていた。

それから30年経った。ずいぶん長い間歩いたはずだが、道はなおはるかに遠いと感ずるのである。


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